丹後に根差した栄枯盛衰が伝統の文化と技をささえているのです。
丹後地方では少なくとも奈良時代から絹の生産が行われており、正倉院には丹後国竹野郡から調貢された絁(あしぎぬ)が残されています。
そして時は、江戸時代。京都府峰山の絹屋佐平治が京都の西陣から縮緬技術を持ち帰り、享保7年(1722年)には加悦谷の手米屋小右衛門、山本屋佐兵衛、木綿屋六右衛門が故郷にその織物技術を持ち帰りました。丹後にはすでに紬技術の蓄積があったことから、また享保15年(1730年)の西陣の大火で織機が多数焼失したことなどから、織物は品薄となり、丹後や桐生などの新興縮緬産地は大きく発展します。
そして明治、昭和の初期には大盛況を迎えるのですが、着物自体の需要の低下もともなって、丹後における、織物産業は衰退していきます。しかし、丹後では1,100前後の織物工場(家業)が現存するなど、栄枯盛衰の波を超えながら、今もその伝統を引き継いでいます。
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