さだまさしと精霊流し
長崎市の人にとっては大変重要な行事であり、長崎出身の歌手さだまさしが聞いた話によれば、1945年(昭和20年)8月9日の長崎市への原子爆弾投下の際には、多くの人が被爆からわずか6日後にある精霊流しを思い、死んてしまったら誰が自分の精霊船を出してくれるのだろうか[3]と気に懸けながら亡くなっていったという。さだまさしは、自分の従兄の死に際して行われた精霊流しを題材にした「精霊流し」を作詞・作曲、1974年(昭和49年)にリリースた(グレープ2作目にして初ヒットにあたる)。曲は大ヒットに至ったが、「精霊流し」のヒットがしめやかなイメージを作り上げてしまったため、観光客が実際の精霊流しを目の当たりにして、あまりの賑やかさに「歌と違う!」と驚くこともしばしばある。しかし、さだは歌詞の中で「精霊流しが華やかに」と書いており、グレープのファーストアルバム『わすれもの』でも、「精霊流し」のイントロ・アウトロ部分に歓声や鉦の音、爆竹の音を入れており、実際は賑やかさも描いている。一般的な行事の印象がいかに強いかを物語るエピソードとも言える。
なお実際の精霊流しを知らない人から精霊流しが「灯籠流し」であると誤解されていることもある(『さだまさし やさしさの風景』(1978年 白泉社)29頁など)。
さだ自身、2009年(平成21年)の暮れに父親を89歳で亡くしており、翌2010年(平成22年)に親族で精霊船を出した際には地元の各テレビ局が取材しネットワークを通じて全国に配信され、沿道からも多くの人が船を見送った[
画像は、京都市の六道珍皇寺の画像。
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