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2013年1月2日水曜日

初詣は「篠村八幡宮」ですね

延久3年(1071)、後三条天皇の勅願により源頼義公が応神天皇陵を守護する誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請して創建した。神社の維持運営に充てるため、延久4年に頼義公は篠村荘を神社に寄進している〔八幡宮所蔵寄進状〕。
 元弘3年(1333)4月29日、足利尊氏が社前に必勝の願文(現存)を奉じて尊王討幕の旗揚げをしたことで知られる。
 鎌倉から六波羅探題を経由して山陰方面から、隠岐島から伯耆の国・船上山に脱出した後醍醐天皇を討伐するために派遣された尊氏であった。4月27日に六波羅を発った当日、篠村八幡宮に宿営を張ったまま動かず、29日に旗揚げ〔神仏に誓って自分の立場を明らかにし、ご加護を願う行為〕をし、馳せ付ける近国の武将の到着を待って、5月7日、六波羅探題を攻め滅ぼした。
 5月8日に新田荘で旗揚げした新田義貞は、尊氏が派遣した200騎に千寿王〔尊氏の長男:2代将軍義詮〕を加えて、5月21日鎌倉幕府を滅亡させた。戦後の論功行賞で、尊氏は第一功労者として最も厚く遇された。
 その後、王政復古の“建武の中興”の政治が始まったが、現実からかけ離れた公家政治に対して庶民階層や武家が反発を強め、尊氏は彼らの意を受けて後醍醐天皇と対立せざるを得なくなった。
 “中先代の乱”鎮圧の後、一旦は京都を占拠したものの、建武3年1月30日、北畠顕家軍との京都攻防戦に敗れた尊氏は2月1日にかけて当社で敗残兵を纏め、神戸から九州へ逃れた。が、僅か1ヶ月で九州を平定の後、早くも4月には上京の途につき、5月25日の湊川の合戦に勝ちを収めて室町幕府の礎を確立した。
 信心深かった当時、主立った武将はいずれも故郷の産土神社で旗揚げをしている〔新田義貞=生品神社、楠木正成=建水分神社〕。
 2度の重大な人生の岐路で当社に祈願して願いはいずれも成就した。後、自ら当社に参詣すると共に多くの荘園を寄進している。京都とは老の坂峠を隔てた篠村の地政学上の位置、篠村の庄の足利家の荘園としての存在、そして直系の先祖が勧請した篠村八幡宮に対して産土神としての特別な感覚があったからこそ、当社を頼ったことと考えられる。
 室町時代を通じて歴代将軍から度々の寄進を受け、最盛時には社域は王子村から山本村にまで及び、社殿も30を越えた。また、永享11〔1439〕年6月9日には境内に建造の神宮寺にご本尊が安置された記録もある。
 昭和61年、1町余の広さの境内全域が亀岡市の史蹟に指定された。平成18年3月17日には尊氏公の『願文』と『御版御教書』が亀岡市文化財から京都府文化財に格上げされた。








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