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2013年4月7日日曜日

丹後から京の都へ~ガラシャ・光秀の道~ 丹後と都を結ぶ丹波の道 


こんな道が、京都と丹後を結んだらロマンと歴史の街道になるだろうな。
明智光秀といえば日本史上最大の謀反事件「本能寺の変」の立役者として、そのイメージは織田信長を討った逆賊、謀反人として認識されてきました。
 ところが、実際には「知将であり、教養人、博識、愛妻家、隠れた英雄、悲運、誠実、文武両道、聡明…」と、従来のイメージと異なる面が徐々にクローズアップされてきました。  光秀は、本能寺の変の後、伏見の小栗栖で果てたと云われていますが、実は死んだのは影武者で、その後は郷里に落ちのびて名を変えて生きていた…という伝説など謎の多い武将でもあります。 その娘の「玉(後の細川ガラシャ)」は、明智光秀の娘として何不自由なく育てられ、十六歳で、織田信長の命令で細川忠興のもとに嫁ぎます。女性が男性の所有物でしかなく、政略の道具として使われた時代に、細川ガラシャは真の人間らしい生き方を貫きます。実の親子も殺し合う戦国の世にあって、強い信念と愛と信仰に殉じた細川ガラシャ夫人のその清らかにして熾烈な悲劇の生涯の物語があります。
丹波の地を領地とした明智光秀と細川家に嫁いで、丹後に渡った細川幽蔡・忠興・ガラシャ。その丹後と丹波と都を結ぶ道が「ガラシャ・光秀街道」です。光秀が東へ西へと奮戦したであろう歴史の足跡がここ丹波の地にあります。なんて展開になると思いますよ。







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