2011年8月26日金曜日

『平清盛』の舞台となる京都の六波羅について

来年の大河ドラマ確実に観光客が増える六波羅。
今は六波羅というより「六原」というほうが多いが、ウイキペディアによれば以下だ。
来年確実に話題になるから押さえておきたい知識です。

六波羅(ろくはら)は京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名である。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される。

天暦5年(951年)空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれているとされる。
この地は洛中から京都の住民の葬地であった鳥辺野に入る際の入口にあたる事から、この他にも六道珍皇寺など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた。
院政期には平正盛が一族のために供養堂を建立し、その子忠盛が「六波羅館」を置き、ここを武家の拠点とする。正盛父子の伊勢平氏は、伊勢国を本拠としており、京都から伊勢や東国方面への街道が近くにある六波羅が拠点として選ばれたと考えられている。平清盛の時代に平氏政権の中心となるが、後に清盛は洛中に「西八条邸」を造営して政治の拠点を移した。しかし平氏一門の軍事力の拠点は引き続き六波羅館に残った。寿永2年(1183年)平氏の都落ちの際、六波羅館は焼失した。

平氏の都落ち後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、京都守護となった北条時政が京都
守護の庁舎を置き(後、一族で甥の北条時定が駐留する)、頼朝や御家人の宿舎が築かれた。ただし、頼朝は六条堀川に河内源氏代々の館を持ち、時政以後の京都守護は公家出身者や京都在住が長い武士が多かったために自己の屋敷を庁舎としており、専ら北条氏のように京都に拠点の無い東国武士が拠点にする場合が多かったとされている。

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