2012年9月4日火曜日

私の『明智光秀』論 


なぜ今、「明智光秀」なのか?

私の『明智光秀』論

なぜ今、「明智光秀」なのか?
明智光秀は冒険者でありました。

彼の人生をひもといてみれば、彼の行動の一つ一つはチャレンジかつ冒険の連続でした。彼は源氏土岐氏の子孫として一国一城の城主から数々の冒険という放浪の旅を経て、織田信長という稀世の時代の革新児と出会いました。彼のもと日の出の勢いで出世していった光秀でしたが、最後に「本能寺の変」で主君信長を討ちます。羽柴秀吉に敗れるまでの間、たった10日余りでしたが、「天下人」でありました。そして結末は、伏見の小栗栖の山林で農民の竹槍で命を落とすというあっけない人生でした。彼をして「主君に刃向かった馬鹿なやつ」と第三者的に笑って片づけるのは簡単です。しかしどこが現代の日本の社会とダブることはないでしょうか??確かに、彼はチャレンジしながらも最後はコケたけれど、現代の若者のように、何もしないくせに評価や結果だけは欲しいと期待している若者とは違っていました。彼の実直さ、正直、理想、生き方などは現代においては永遠に受け入れられないものなのでしょうか?今、青少年たちは「冒険」や「チャレンジ」する心を忘れかけています。かっこよく生きたい、人から評価されたいという思う反面、自ら行動することなく他力本願(他人任せ)、自分は傷つきたくない、誰かが「~してくれる」的な発想、失敗すれば人の責任、たまたま成功すればそれば自分の努力のおかげ?その一方で冷めた大人びた少年少女たち、いわゆる一種の刹那的、短絡主義がはびこっている風潮があるのではないでしょうか。その典型として“草食系男子”といわれる世代かもしれません。それは日本の社会なり、時代を反映しているといえば私たち大人の責任でもあります。彼らの行動のひとつひとつは、かってバブルに踊り、後先をみないで突き進んだ結果、時代の中で沈まざるをえなくなった日本の縮図であり、将来を敏感に感じ取っているのかもしれません。今中学校高校生の中では、刹那的、倦怠感、不安、イライラなど現在の日本社会を反映する小現象がおきています。97年4月に発生した神戸の小学生連続殺傷事件や学校内暴力、器物破損、登校拒否生徒の増加、深刻ないじめ問題、援助交際、はてまた小動物の惨殺などこの年齢層を取り巻く精神的、物理的問題は数多くあります。今教育界では、道徳感、倫理観、心の教育が文部省をはじめ都道府県で叫ばれ、現場においても、青少年の「生きる力」の育成、「心の教育」についていかに対応すべきかの施策を講じはじめています。むかし映画「もののけ姫」に約1300万人が入場しました。宮崎駿監督が映画で訴えたかった主旨とは違うところで、多くの若者たちの共感を呼び、心を動かしました。当時この現象は社会現象としてとらえられていますが、先にのべたように青少年の心に潜む何らかの課題と無関係ではないようです。彼らが日常の課題の中で、何らかの答え、共感をこの「もののけ姫」に見出しているのかもしれません。  しかし本当に現代の若者たちの心は荒んでいて、刹那的でドライなものなのでしょうか?一例として、高松東高校でとった全校生徒1097名のアンケートを紹介すると、「死にたいと思ったことがある」は48%、「信頼できる大人がいない」が47%、「孤独と感じることがある」が62%、確実に若者たちの「心」は病んでいます。そこで浮かび上がってきたキーワ―ドは今年も「心」「命」であったといいます。
「冒険」「チャレンジ」「失敗すること、傷つくことを恐れない」
そんな生き方を「明智光秀」という人物を通じて今、若者に語りかけていく。
自分を発見し、一度しかない人生を自分らしく生きるためのきっかけとすべく。
なんてことを、明智光秀から感じ取ることができると思うのですが、長くてすいません。






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