2011年10月16日日曜日

篠焼でも登り窯を復活させるか

篠窯跡群について
篠町は昔むかし一大窯の産地でありました。

昔国分寺の設営に、長岡京、平安京への供給する器の産地でした。ということこはここで「篠焼」なるものを復活させても文句ないわけだ。名物に篠登り窯群の復活もついでに。
 篠窯跡群は、京都府(図1)京都市の西に位置する亀岡市にあります。亀岡市の中心を占める亀岡盆地の南東部(篠町)の丘陵上に広がっている須恵器の窯跡をまとめて、篠窯跡群(図3)と呼んでいます。京都府中部はかつて丹波国(たんばのくに)と呼ばれていましたが、亀岡市内には丹波国府(地域ごとの役所、いまの県庁・府庁に当たるもの)が置かれ、丹波国の中心地でした。そのような丹波国府に近く、しかも峠を越えれば平安京へも程近い場所に位置するのが、この篠窯跡群です。
 篠窯は、京都縦貫道と呼ばれている有料道路を建設するために、昭和51年から61年まで継続的に発掘調査などがおこなわれ、奈良時代から平安時代にかけての間、須恵器・緑釉陶器や瓦などを生産し続けてきたことが明らかになっています。窯の総数は100基をはるかに越えており、古代の日本、特に平安時代を代表する一大窯跡群であることになります

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